2022年10月1日に逝去したアントニオ猪木は、日本プロレス界に大きな足跡を残した人でした。
プロレスラーとしてのアントニオ猪木の凄さは、どんなタイプレスラーや格闘家と対峙しても、記憶に残るパフォーマンスを繰り広げられたことに尽き流のではないでしょうか?
私も子供の頃、金曜8時の生放送の「ワールドプロレスリング」のアントニオ猪木に魅了され
後楽園ホールや蔵前国技館へ通いプロレスから生きるエネルギーをもらいました!
そんなアントニオ猪木はプロレスだけではなく、格闘技界にも、猪木は大きな爪痕を刻んだのです。
猪木がいなければ、今日の総合格闘技(MMA)はなかったと断言することもできます。1976年6月26日、“今世紀(20世紀)最大のファイト”とうたわれた当時のプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの異種格闘技戦は、MMAのルーツといわれています。
猪木がいなければ今日の総合格闘技はなかった!
新日本プロレスから発展したUWF、そして前田明のリングス・高田延彦のUWFインター。そしてプライド。今の現在はRIZIN。全ては猪木からスタートしたのです。
そこで今回の記事は、生きる力を与えたくれた故 アントニオ猪木さんについて語っていきたいと思います。また、猪木さんの名言からあなたにも元気を与えてくれるでしょう。
アントニオ猪木の名言
アントニオ猪木の『道』
この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ 行けばわかるさ。
「道」と題されたこのアントニオ猪木の有名な言葉は、1998年4月4日に東京ドームで実施された引退記念試合後のスピーチでアントニオ猪木が披露した名言です。
東京プロレスの設立、新日本プロレスの旗揚げ、そして、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」その最強を証明するためにボクシング世界チャンピオンのモハメド・アリとの格闘技世界一決定戦など数多くの新たな挑戦に対し、誰もが踏み出さなかった「一足」を踏み出し、自ら道をつくり続けた猪木の人生そのものを表現しているようです。
アントニオ猪木の名言 「元気があれば、何でもできる!」
元気があれば、何でもできる!
猪木と言えば、「元気ですかー!!!」この問いかけで、周りの人を元気にしている。そして、元気こそが活きる力、耐える力、乗り越える力になる。結局、元気があれば何でもできる。私もそう思っています。
アントニオ猪木の名言 「道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ。」
道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ。
人生という道を歩んでいると、時に心が折れそうになる険しい登り坂や下り坂があります。そんな時でも「笑いながら歩くこと」そうすることで元気が湧いてくる。だから、笑おう。そういうメッセージがこの名言には込められているように感じます。
アントニオ猪木のプロフィール
Antonio Inoki
アントニオ猪木
日本のプロレスラー、実業家、政治家。
国: 日本(神奈川県横浜市鶴見区)
生: 1943年2月20日
1943年2月20日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。本名は猪木寛至(かんじ)。
父は猪木が5歳のときに死去。実家は石炭問屋であったが、戦後になりエネルギーの中心が石油に移り変わり倒産。
貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、猪木が13歳のときに母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
猪木はブラジルで陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど活躍。
1960年4月、17歳の猪木はブラジル遠征中の力道山(1924~1963)の目に留まり直接スカウトされる。
日本に帰国した猪木は日本プロレスに入団、1960年9月にデビュー。
デビュー後、猪木は力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月に死去。
1964年、21歳の猪木はアメリカ武者修行に出発。
1966年に帰国後、猪木をエースとする東京プロレスを旗揚げするも3カ月で倒産。猪木は日本プロレスに復帰する。
日本プロレス復帰後はジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。
その後、馬場との対戦要求が容れられなかったことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から猪木は1971年に追放処分を受ける。
「日本プロレス」を追放されてしまった猪木ですが、1972年1月には、「新日本プロレス」を旗揚げすると、当初は、テレビ放送がなかったことや、「日本プロレス」の妨害で、外国人レスラー招聘ルートが閉ざされるなど、苦しい経営を強いられるも、
翌年の1973年に、NET(現・テレビ朝日)がバックにつき、テレビ放送が開始されると、元「国際プロレス」のエース「ストロング小林」との大物日本人対決や、「日本プロレス」時代の先輩である大木金太郎さんとの遺恨試合など、これまでタブーとされてきた試合のほか、無名の外国人選手で後にスターとなる。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを招聘して、奇抜で迫力ある試合を展開し、多くのファンを魅了します。
1976年、33歳の猪木はプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと対戦。世界各国に中継され話題を呼んだ。
1989年、46歳の猪木はスポーツ平和党を結成。同年の参議院選挙に出馬し初当選。
1998年4月、55歳でプロレスを引退。
総合格闘技の原点 異種格闘戦 対モハメッド・アリ
プロレスこそ全ての格闘技の頂点である
という、スローガンを掲げ、
1976年には、実際に最強を証明するため、当時、プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリさんとの格闘技世界一決定戦を実現。
また「熊殺し」の異名をとる、空手家ウイレム・ルスカさんとの壮絶な戦いを次々に実現させるとともに異種格闘技路線を成功させ、人気を高めていきました。
格闘技関連記事
オカダカズチカは新日本プロレスに”金の雨を降らせる”「レインメーカー 」”
最後までお読みいただきありがとうございます。
関連記事
ドウェインジョンソンはディズニーボーイだった!ジャングルクルーズで夢叶う!
ジェイソン・ステイサムの若い頃はハゲではく、闇商人で生活していた!?ヒゲも筋肉も魅了な俳優
応援お願い致します。
コメント
What an amazing iconic wrestler. I only knew of Japan having Sumo wrestlers.